開拓の北の大地の観音霊場

北海道三十三観音霊場の由来

 当霊場は大正2年(1913)徳島市の山本ラクさんが北海道の33箇所の真言寺院に本西国霊場と同じ33体のご本尊を縮小模刻し配納することによって開創されました。山本ラクさんは弘化2年(1845)—江戸末期—に徳島県七条村(現在の徳島県上板町)に生まれ、若い頃から徳島市で数軒の割烹旅館の経営に成功された資産家でしたが、振り返ると幼くして母や姉妹と死別、ひとり娘にも先立たれ、老いて気がつくと天涯孤独でした。60歳で徳島の旅館を整理すると、こんどは、信心の道を歩む決心をし、大阪の高僧をたずねて仏門に入るため得度をし「善真(ぜんしん)」という名を授かりました。弘法大師の霊蹟四国88ヶ所を幾度となく歩いたのは、この頃のことです。ラクさんの生まれた故郷の徳島からは北海道に入植した人がたくさんいました。困難な開拓に明け暮れる人たちの「心のよすが」に観音霊場を創ろうと決意します。
開拓者だけでなく将来「内地」からの巡拝者の来道も予想し、第一番札所を当時の北海道の玄関口、函館の高野寺とします。ラクさんは、この事業に全財産を投じましたが、受け入れ側の寺院の住職や徳島出身の開拓者たちも、札所配置の助言をしたりラクさんの生活の面倒をみるなど協力をおしみませんでした。霊場を開創してからも、ラクさんの信心にかける想いは大正7年、なやめる人びとを救済しようと旭川市に「高野山大師教会山本支部」を設立しますが、後にふる里、徳島県に戻り大正15年、82歳で遷化されました。山本ラクさんは壮大な観音霊場を北海道にのこしてくださいましたが、その後、残念なことに誰からも忘れられ、埋もれてしまいます。埋もれていた霊場を昭和60年第13番札所真言寺 名誉住職資延憲英僧正の調査により再興されたよみがえった霊場です。

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2023年7月31日

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